お婆ちゃんの短期施設入所
不安と期待の小学一年生の気分の私
ドキドキしながらも
にこやかに包み込むような笑顔の施設のリーダ職員に出迎えられた。
色々なアドバイスをもらい、信頼して菓子折りを手土産に持っていって
(菓子折りと私の心を返して!と叫びたい)
2日目に私は今までにない悔しさと悲しみでわーわーと泣き
お婆ちゃんのパジャマに大きくマジックで書いて縫い付けた。
戦争に行くみたいな名札をつけた。
こんなところに、こんな人に預けなきゃいけないんだ。
と信じてた人、場所の見てはいけない部分を見てショックから立ち直れず
毎日面会に行った。パパさんも毎日仕事帰りに寄っては顔を見てきた。
しかし、私たちが騒いだところで、人質、私ひとりが我慢すれば済む話
(何をされたか書けなくてわかりづらくてスミマセン)
(ご想像にお任せシマス)
リーダーの職員以外の方は黙々と仕事をこなしよく看てくれたので感謝している。
ショートステイというところは、本来家族の人の出入りが少ないところだものね。
勿論他の施設ではそんなことはしてないと思うけど。
そうしているうちに、抵抗力が弱っているお婆ちゃんはインフルエンザに感染し、また入院
入院をすると、施設も退所扱いで、また行くところが無くなっちゃうんだよね。
日中も夜中もいつ電話がかかってくるかわからない状態で
眠れない毎日がずっと続いた。
インフルエンザが治っても肺はもうボロボロでいつ止まってもおかしくない状態だった
が
それでも退院を迫られ
転院を繰り返し、
最期は酸素ボンベでキャッチャーでの移動で新しい病院に転院して
3日目ですべての苦しみから解放され本当に眠るように息をひきとりました。
みんなが見守る中、ちゃんとお別れの日を自分で決めたかのような
立派な最期でしたよ。
亡くなる前日まで意識もあったし、私のことも娘の名前も覚えていてくれた;
心電図の脈がぴ~~~~と波が途絶えて平らな線になったとき
覚悟はしてても、震えが止まらず、頭の中は真っ白で泣き叫びました。
みんなは(娘や孫達)シクシク静かに、お母さんに”お疲れ様”と声かけていたのに
私は止まったままのお婆ちゃんの手や指を叩いてました。
身体を揺らしたりすると脈は一瞬波打つそうです。(アホ)
遺体でお家に帰ってきたとき
らんぷ~はしばらくグルグル回りましたが、もうらんぷ~の知ってるお婆ちゃんの臭いは
しなかったのか
わからなかったのか
近寄ろうとはしませんでした。
病院や施設を転々としたけど
手厚い介護を受け、毎日のように娘達も孫達も頻繁に見舞いに通い顔を見て毎日話が出来た。
辛い日々ながらも、良い時間を過ごせたのではと思います。(ってかそう思うようにしてる)
葬儀や亡くなった後の諸手続き、入院費の支払い、49日やお盆が終わって
月日が経ったのに
寂しさが込み上げてくる。
そんなものなのか。
お爺ちゃんのときはお婆ちゃんが居た。
だから
こんなポッカリ感はなかったんだよな。
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